このブログでは、建物の基礎や塀の一部などの過去の痕跡が残る空き地を、「無名の遺跡」や「痕跡を残す空き地」と呼んで紹介してきた。
これらの記事で紹介した空き地の多くは住居や店舗(事業所)の跡地だが、なかには用途不明の施設跡地もあった。
この種の空き地の姿は様々であり、過去の痕跡が多く残されているものや、それが僅かしか残されていないものがある。もちろん、痕跡が多く残されている空き地は街中でも目を引くし、そこではかつて存在していたもの(建物など)の姿が想像しやすい。ただどちらにしても、この種の空き地は"過去に何かが存在していたことを匂わせる空間"という意味で他の空き地にはない魅力がある。また、かつて存在したものが消えつつある最後の姿として印象深いものがある。
この記事では、住居跡地とみられる空き地3ヵ所と、何かの施設跡地と考えられる空き地2ヵ所を紹介したい。
なお、ここでは敷地内に残された痕跡をもとに過去に何があったかを推測している。しかし、それが推測しづらい場合はストリートビューの過去画像やGoogle Earthにある過去の航空写真などを参照した。
塀と駐車スペースの痕跡
住宅街に外構の一部が残された空き地があった。おそらく住居跡地と考えられる。
写真の左手前の地面は敷地の奥へつながっている。おそらく、ここがかつてのエントランス部分だろう。そして、右奥には四角く区切られた駐車スペースと思われる跡地があり、さらにその奥には塀が残されている。
元駐車スペースと思われる一画。地表には砂利が散らばっているが、元々コンクリートで舗装されていた可能性がある。
スペースの周囲は、このような簡易的な土留めで仕切られている。しかし、この仕切りも元々はブロック塀などでつくられていたのではないだろうか。なお、仕切りのすぐ奥には解体で出たものと思われる瓦礫が残されていた。
それにしても、わざわざこのスペースを残している理由は何だろうか。
ひょっとしたら、将来同じ構造で住居などを建てる予定があるのかもしれないし、ただ単に敷地内の土が道路へ流れ出るのを防いでいるだけかもしれない。
スペース内に残る汚水桝。
敷地の奥に目をやると、草刈りでできた小山がいくつもあった。日常の管理が行き届いていることがわかる。
ここには何故かブロックが積まれている。解体で出た瓦礫のうち、再利用できるものを集めたのだろうか。
そして、道路との境界には一部天辺部分が壊された塀が残っている。
隣地との境界にある塀は綺麗な状態だ。
右端から見た敷地内の様子。この辺りに和風建築の住居が立っていた、と勝手に想像してみる。
(no.402 茨城県)
わずかな痕跡が残る空き地
「昭和橋跡地」と書かれた石碑が立つ空き地。
市が公開している資料によれば、昭和30年頃までこの辺り(資料を読むかぎり、空き地の中ではなく道路上)に用水路が通っていて、そこに昭和橋が架かっていたそうだ*1。
石碑がある角から見た様子。
この空き地は住宅跡地と考えられ、わずかだがその痕跡が残されている。
この辺りには、水道メーターボックスと止水栓があった。
空き地の端は資源ゴミの集積所になっているようだ。右の標識用の土台には、造花の枝らしきものが挿してある。一体何の用途だろうか?
もう一つの角から撮影。この辺りには汚水枡と見られるマンホールなどが残されている。
汚水枡と掃除口のハンドホール 。右側には赤いガス管の表示杭がある。
また、敷地内を眺めていると水仙と思しき花が咲いていた。おそらく、かつてこの辺りに庭があり、住人が園芸を楽しんでいたのだろう。この周辺では、築3、40年くらいと思われる瓦屋根の和風住居やトタン造りの住宅などをよく見かける。この空き地にも、そのような古い住居が建っていたのではないだろうか。
(no.403 茨城県)
作業場あるいは資材置き場の跡地
住宅街にある工事用フェンスで囲われた空き地。
ここに扉が設けられていた。なお、敷地を取り囲むフェンスは全て単管パイプで支えられているようだ。敷地の奥行きは25メートルくらいだろう。
敷地の右半分の様子。ここはコンクリートで舗装されているが、経年により傷みが進行している。手前には門のレール跡が確認できるので、元々はやや大きめの門が設置されていたとわかる。
そして敷地の左側は舗装されておらず、雑草で覆われている。Google Earthにある10年ほど前の航空写真には、この部分に建物のような構造物が写っていた。
おそらくこの空き地は資材置き場か、何かの作業場だったのではないだろうか。
冬に撮影した敷地左側の様子。フェンス前に過去の痕跡と思われるブロックが置かれている(左写真)。雑木も生えており、放置されてきた時間の長さを感じさせる。
(no.404 茨城県)
庭木と塀が残る住居跡地
住宅街で見つけた、外構の基礎や庭木などが残る空き地(全体像)。
この空き地の面積は120坪くらいある。まず目を引いたのは、この塀の土台である。
このように長い鉄筋が残っており、その長さから塀の高さが想像できる。内側に曲げられているのは、おそらく安全に配慮してのことだろう。
敷地内にはわずかだがゴミが投棄され、環境が悪化しつつある。
このパイロンは投棄されたものではなく、解体工事で使ったものではないだろうか。
塀の痕跡は奥の角まで続いている。
敷地の角から撮影。この辺りの鉄筋は真っ直ぐに立っている。
今度は、先ほどと反対側の角から観察してみる。
この辺りの敷地の境界には塀が残されており、イヌツゲらしき庭木が植えられている。
ここには笹が繁殖している。そして、笹に埋もれるようにマサキと思われる庭木が残っている。
この道沿いにもマサキのような庭木が残っていた。
ここまで見てきたように、過去の痕跡は敷地の端に集中している。それ以外で目につくのは、ススキやセイタカアワダチソウの枯れ草や、この春に芽吹いてきた雑草くらいである。ただの勘だが、ここは空き地になってから4〜5年以上は経過しているのではないだろうか。
なお、上の写真の左側にはガス管と思われるものが残っていた。
ポツンと立つガス管らしきもの。右下の部品もそれに関係するものだろうか。
(no.405 茨城県)
コンクリートで覆われた空き地角地にある地面がコンクリートで覆われた空き地。
敷地の周りを囲む柵は金属製のポールと鎖でできている。ここは一般住宅の跡地というより、何かの事業所があったのではないだろうか。
なお、GoogleEarthにある2009年に撮影された航空写真には陸屋根の建物が写っていた。しかし、それが何の建物かまではわからなかった*2。そして翌年(2010年)にはその建物は解体されたようだった*3。
敷地の角から見た様子。
写真奥にある白い地面の部分が、建物が立っていた場所だろう。
建物の基礎らしき四角い痕跡。壁の跡のようなラインもあり、何となく間取りが想像できる。
敷地の端にはモチノキのような木が残されている。その奥に立っている針葉樹はカイヅカイブキと思われる。
これらが植樹された時、そばにはどんな建物が立っていただろうか。また、この樹木たちはどのような気持ちで育てられていたのだろうか。
(no.406 千葉県)
これらの"無名の遺跡"を観察していると、かつて存在していた建物や施設の姿がおぼろげながら頭に浮かんでくる。それとともに、それらが使われていた頃の人々の様子についても想像が膨らんでしまう。また、こうして過去に思いを馳せながらたくさんの"無名の遺跡"を訪れていると、無くなった建物や施設を追悼供養しているような妙な気持ちにもなる。
ここで紹介した空き地には、かつて住居、店、資材置き場、作業場などがあったと考えられる。それらはありふれたものであり、特に注目に値するようなものではないかもしれない。けれど、それらの過去の姿に意識を向けることで、常に街の景色が移り変わっていること、その時間の中に自身が生きていることを実感できる。引き続き、様々な空き地の姿を通して街と時間の関係についても考えていきたい。
*1:龍ヶ崎西コミュニティ協議会文化体育委員会「龍ヶ崎『西の風物語』(旧市街西部地区・名所旧跡調査)」龍ケ崎市ホームページ、https://www.city.ryugasaki.ibaraki.jp/kurashi/shimin/chiiki/2015082500070.files/nisinokaze.pdf(2020.12.30.閲覧)
*2:参照:Google Earth Pro 構築日:2020年7月21日
*3:同上。