かつて地元に広い空き地があった。
これは2012年6月に撮影した様子である。
この空き地の面積は6ヘクタール以上ある。全体が草に覆われ、ところどころ自然に根付いた低木も生えている。またこの中にはキジが棲んでいて、そばを通ると鳴き声をあげながら飛び立つ姿が見られた。
2013年7月に撮った空き地の北側の様子。どこまでも広がる草景色が、夏の風情を感じさせてくれる。
空き地の中は平らではなく、たとえば左奥のような低い丘もある。
これは2014年9月に撮影した空き地の南端。
散歩するときは、決まってこの空き地の前を通っていた。なぜかフェンスが立っているが、向こう側にも空き地が広がっているだけである。
同日に撮影。先の写真のように地面が草で覆われている所もあれば、この場所のように土が見えている所もある。
この時はサバンナの夕暮れを想像しながら眺めていた。
2015年2月。冬になり、草が枯れると奥の方に小山が姿を現した。そこにはなぜか固まって樹木が生えている。
記憶では、この頃から空き地の中に変化が見られるようになった気がする。草が刈られたり、地面を整える工事なども始まった。
2015年3月。写真の左奥の方では、いつの間にか工事用のフェンスが立てられていた。
同じ日に撮影したもの。この空き地ではこれまで見たことがない印象的な風景だった。
しかし、間もなくこの木も取り除かれてしまった。
2015年8月。ついにショベルカーが入り、小山が崩され表面が均された。
もう緑豊かな草原も、印象的だったあの木々も、キジの姿も見られない。
2016年4月。すっかりきれいに整えられた空き地。
たつのこ山からの眺め
整地作業が終わった2015年秋頃から2019年のモールが完成した頃まで、何度か「たつのこ山」から撮影してみた。
2015年10月
2016年4月
2017年11月
2019年7月
前後比較
2016年4月。
2019年10月。
2012年6月。
2019年12月。
土地は過去を記憶している
朝のモール。中央は広い駐車場になっていて敷地を囲うように店が立ち並ぶ。
撮影時は営業前の店が多かったため、車はまだ少ない。
モールの完成後、さっそく敷地内を歩いてみた。
誰もいなかった空き地の上をたくさんの人が歩いている、という現実がなんだか夢のようだった。こんなに人が集まる場所になるとは、あの空き地も考えていなかっただろう。私にとっては、あの何にも使われていない状態が本当の姿であり、この新しい風景は仮初めのものに思えてしまう。
その後、キジが飛び立つ姿を思い出したり、「木が立っていたのはこの辺り」とか「小山があったのはあの辺り」などと想像しながら歩いた。
モールになったこの場所に当時の面影はどこにもない。しかし、今もこの土地は空き地だった頃を記憶しているように思える。
このことついて、ノンフィクション作家の梯久美子氏も同様のことを述べている。梯氏は「土地は、その上で起こった出来事を記憶しているー取材でさまざまな場所を訪れていると、そんな気がしてくる。」と述べている*1。
作家の原民喜*2の評伝を執筆した梯氏は、原が自殺した場所を探し、現在は高架下の空き地になっている場所を訪れたり、原が歩いたという線路沿いの道を歩いたりしたそうだ*3。こうして、死者のゆかりの土地をたどってきた梯氏は、「毎回、足元の土地の記憶に耳を澄ます。感じるものがある場合もあるし、何も分からないままのこともある。」とも述べている*4。
ここで梯氏が語っているのは、土地が人にまつわるどのような記憶を留めているのかということである。
一方、私はこのモールで、土地が記憶する無人の頃の出来事について考えていた。
私も梯氏と同様に、土地の過去について具体的なイメージを抱く場合もあるし、そうでない場合もある。しかし、たとえ取るに足らないものであっても、全ての空き地にはそれぞれ固有の歴史があり、必ずそれは佇まいに現れていると考えている。また、過去の姿だけでなく、未来の姿を想像させてくれるような空き地もある。したがって、空き地を訪れて全く何も感じないという経験は今のところはない。
なお、次に紹介する空き地が「その上で起こった出来事を記憶している」*5と感じられた場所である。
この住居跡地は塀が完全に解体されておらず、敷地内には排水管の一部が残されていた。
この道沿いには塀と柵、門柱、表札、郵便受けがあった。また、ぼかしを入れているが表札には名前が残されていた。
ここには右手前だけ塀の基礎が残されていない。つまり、ここが車の出入り口(車庫)だったと考えられる。
このように、この空き地には人が住んでいた頃の痕跡が多く残されていた。また、この辺りは新興住宅地ではなく、古い住宅街のようである。
この場所から人が立ち去ってから、どれくらい時間が経過しただろうか。
また、どんな人が住んでいただろうか。
具体的なことは何もわからない。
しかしこの場所には、土地自体に居住者の思いが残されており、それが微かな気配となって漂っている気がした。
私は、人が空き地に対して抱く印象の多くは、その人の経験やその土地の諸条件から生まれるものであり、説明可能なものだと考える。したがって、この土地で感じた気配も、残された痕跡や周りの環境をもとにした私の勝手な想像といえるかもしれない。
しかし、たくさんの空き地を訪れる中で、土地そのものが過去を記憶しているとしか思えないことが何度かあった。また、一見したところ特別変わったところがない空き地なのに、なぜか独特の空気や暗さを感じることがある。このような経験から、土地自体が記憶を持ち、ある種の神秘性を宿していると思えてくる。
(no.331 茨城県龍ケ崎市)