東日本大震災から5年半以上が経過した2016年10月13日〜14日。
被災地の今の様子を見に宮城県東松島市(野蒜地区、浜市地区)と石巻市(門脇町、南浜町、雲雀野町、湊町、川口町、大門町、八幡町)を訪れた。
震災直後には多くの人が被災地を訪れ、その様子は画像や映像などで記録されている。また、今から3年くらい前の被災地の風景は現在のGoogleマップのストリートビューでも確認でき*1、そこにはまだ津波の生々しい爪痕が写し出されていた。
しかし復興は日々急ピッチで進んでおり、震災から5年半が経過した現在の様子がどのようになっているのか気になっていた。
津波によって色々なものが破壊され、その後に残った広大な空き地は現在はどうなっているのだろうか?
災害の痕跡はもう見られなくなっているのだろうか?
このような風景に関する詳しい情報はあまりネット上で見当たらなかったので、空き地を確認することも兼ねて現地を訪れることにした。実際に見てわかった復興状況(おもに景観)について、この記事でまとめてみたいと思う。
宮城県東松島市 野蒜(のびる)地区
2016年10月、東京から東北新幹線、仙石線を乗り継ぎ、宮城県東松島市の「野蒜駅」に到着した。
野蒜地区は松島湾と石巻湾の間に位置しており、津波によって甚大な被害を受けた地域である。
野蒜駅を降りると、駅前は開発の真っ最中だった。
駅前ロータリーも完成しつつある。
駅を出てすぐ左側では新しい道路もつくられていた。
新しい野蒜駅の駅舎。
旧野蒜駅はここより海抜の低い場所にあったが、津波の被害により使用不能となったため2015年5月にこの場所に新設された。
JR仙石線の津波の被害が大きかった区間では、路線が内陸に移設され、2015年に全線が復旧したばかりである。
そして、駅の真正面には整地作業中の広い空き地があった。
横からみた様子。
駅を背に左手に広がる空き地。
中央付近。
奥の方にも広がっている。
右端の区画。
(no.105 野蒜駅前の開発地 / 宮城県東松島市)
作業してる方に街へ繋がる道を尋ね、ついでにこの空き地についても聞いてみた。
話によれば、今いる場所は旧市街地より高い山の上にあり、元々は何もない土地だったそうだ。しかし津波によって低い場所にあった街が被害を受けたため、これからここに移住者のための団地を整備するらしい。
駅を離れ新しい道を下っていく。途中で工事中の高架道路があった。
これは駅前左手にあった新しい道路だろう。
その陸橋の横には、駅前への近道になる階段もつくられていた。
さらに進むと、今度は仙石線の陸橋が見えてきた。これも震災後に新設された新しい路線だ。
道を下っていくと、ようやく住宅街が見えてきた。
住宅街に入ると、早くもあちこちに空き地があることに気付いた。
おそらく、この空き地は浸水被害を受けてしまったと考えられる。なぜなら、この近くに浸水深度を示すラベルが貼ってあったのだ。
道沿いにはプレハブ小屋が建ち並んでいるのが見えてきた。
このプレハブの前にあるのが東松島市立野蒜小学校だ。しかし、津波の被害を受けて今年の春に閉校となっている。
校舎前には小学校の通用門の石碑(左)と、津波の浸水深度が示された電柱があった。これを見ると校舎の一階部分は浸水してしまったことがわかる。
正面方向から見た小学校。校舎の前に並んでいたプレハブ小屋は、市民センター、駐在所、郵便局、消防署などとして機能している。
市民センター入り口。
センターの前には地域の開発事業の概要が掲示されていた。
プレハブについていた発電機。街灯専用だろうか。
ここが駐在所。
その隣には消防署がある。
おそらく、ここが野蒜小学校の正門跡だろう。右側の門柱には小学校の表札が残っている。つまり、左の三角コーン付近にも門柱があったと考えられる。
小学校を離れ、海辺に向かって歩いていく。
意外なことに未だに津波の痕跡が残る建物が点在していた。
壊された扉や窓にはベニヤ板が貼られている。
この建物はリフォームしたてなのだろう。
屋根付近には、津波の浸水深度を示すステッカーがある。
このそばに、塀の基礎だけが残る空き地があった。
正面から撮影。
小さな階段。建物の勝手口につながっていたのだろうか。
敷地の裏手。
この辺りにも塀の基礎らしきものが残されている。しかし、すでにこの部分では何かが植えられ、畑として利用されているようだ。
隣にも塀の基礎が残る別の空き地があった。
このように、この付近には住宅跡と見られる空き地がいくつもある。
ひとまず、海に向かって進むことにする。
徐々に建物の数が減り、空き地ばかりになってきた。かつてこの辺りには人家が多く建っていたようだが*2、今は家も畑もほとんど見当たらない。
( 宮城県東松島市野蒜地区の空き地 ② - 空き地図鑑 へ続く)