空き地図鑑

空き地、更地、使われていない資材置き場、オープンスペース、祭祀場、住居跡地など、「空いている場所」がもつ様々な機能、意味、魅力を探ります。 (※本ブログに掲載の写真および文章の無断使用(転用・転載など)は禁止しています。)

氷川女體神社磐船祭祭祀遺跡(ひかわにょたいじんじゃいわふねまつりさいしいせき)

 

埼玉県さいたま市にある氷川女體神社の前には、江戸時代につくられた屋外の祭祀場が残されている。

ここは、現時点においても古い祭祀の様子がうかがえる貴重な空間である。

 

f:id:akichiniiko:20160705001853j:plain

祭祀遺跡の入口から撮影。

道を挟んだ向かい側に、氷川女體神社がある↑

 

f:id:akichiniiko:20160705021805j:plain

祭祀遺跡の入口。

奥へむかって細い道が続く。

祭祀遺跡に向かうには、少しの間、この薮の中の道を歩くことになるのだが、そこは人が二人通れるほどの幅しかなく、周囲は鬱蒼としていて視界が狭い。昼間でなかったら、きっと不気味に感じる人もいるだろう。

しかし、その狭い道が続いた後、最後に開放感のある広い空き地(祭祀場)に出る ↓

 

f:id:akichiniiko:20160523210242j:plain

(no.68 氷川女體神社磐船祭祭祀遺跡 / 埼玉県さいたま市

 

この体験はちょっとした驚きを伴い、ここがまるで外界から隠された秘密の空間のように思えてくる。

このような視覚的効果は、おそらく意図されているのだろう。先ほどの細い道は、祭祀場の神秘的な雰囲気を演出するのに重要な役割を果たしている。

なお、この祭祀遺跡の歴史について、現地の標識の内容を要約すると次のとおりである*1

 

この神社では、古くから近くにあった見沼を利用して「御船祭」が行われていた。

しかし、江戸時代に見沼の干拓が行なわれ、この祭りは一時中断される。

その後、江戸時代中に再びこの干拓地に池が掘られ、池の中央に新たに祭祀場の島(上の写真)がつくられた。

こうして、享保年中に「磐船祭」と改称して祭りが復活する。なお、この祭礼は幕末から明治初期頃まで続けられた。

 

上の祭祀場の写真をみると、島全体が円形の広い空き地になっていることがわかる。

さらに、その中央付近には、四本の樹木で囲まれた斎域としての空き地が設けられている(下の写真)。標識によれば、ここは神輿が渡御する重要な場所だったようだ。 

このような入れ子構造の空き地は珍しいだろう。 

 

f:id:akichiniiko:20160523210306j:plain

 (no.69 同祭祀遺跡の中央にある斎域の空き地)

 

 

f:id:akichiniiko:20160705001800j:plain

祭祀場の周りはぐるりと池に囲まれ、樹々が鬱蒼と茂っていた。

 

 

 

*1:さいたま市設置の現地標識を参照。