空き地図鑑

空き地、更地、使われていない資材置き場、オープンスペース、祭祀場、住居跡地など、「空いている場所」がもつ様々な機能、意味、魅力を探ります。 (※本ブログに掲載の写真および文章の無断使用(転用・転載など)は禁止しています。)

大坂城の空堀

f:id:akichiniiko:20200909105744j:plain大坂城跡に、水が入っていない「空堀(からぼり/からほり)」がある。

空堀になっているのは、内堀の3分の1ほどで*1、残りは水が張られた水堀である。

上の写真本丸南側にある空堀(桜門西側)の様子。

新緑の時期に訪れたので、雑草に覆われた空堀の姿を期待していたが、残念ながら草刈りが済んだばかりのようだ。

一番奥、突き当たりの石垣は、本丸入り口(桜門)につながる土橋になっており、その向こう側にも空堀が続いている。

f:id:akichiniiko:20200909105307j:plain左奥の石垣が、本丸入り口(桜門)の土橋。

桜門は撮影スポットになっていて多くの観光客で賑わっている

 

空堀は、敵が身を隠せないなどの水堀にはない利点がある。しかし、ここだけ空堀にした目的は不明とされている*2 このことについて、現地の解説板には次の内容が記されていた(以下要点のみ記す。)*3

・ここは1624(寛永元)年、徳川幕府による大坂城再築工事の時に築かれ、当初から空堀だった。

・豊臣秀吉築造の大坂城も本丸の南は空堀になっていた。

・ここだけ空堀にした目的は不明である。

  

このことについて、他に明らかになっていることがあるか市に問い合わせたところ、次のことがわかった*4

※以下要約(太字部分)

・徳川期大坂城の築城工事は、大きく3期に分けて行われた。このうち第2期工事(1624-1626(寛永1-3)年)にあたる1624年にこの空堀が築かれたが、その目的ははっきりとしない。

・しかし、これまでの研究状況を踏まえると、大坂城が築かれた場所の旧地形が関わっている可能性がある。

・この場所の旧地形を調査したところ、空堀のある南側が高所に位置し、それに比べて水堀のある北側は標高が低いことがわかった。したがって、ここを水堀にすることは困難だったことが考えられる。

 

なお、渡辺武『図説 再見大阪城』でも同様の指摘がなされており、ここだけ空堀にした目的がはっきりとしないこと、空堀がある場所は標高が高いため、水堀にすることが技術的に困難だったことを推定している*5

このように、つくられた目的ははっきりとしないものの、ここは地形の問題が原因で空堀になったと考えられている。もちろん、これは推定なので他に理由がないとは言い切れない。

この辺りのことに詳しくないため、これ以上のことはわからないが個人的な関心としては、江戸時代にここが何かに利用される機会があったのかどうかという点。梯子などで降りて、一時的であれ何かに使われるケースがあったとしたら興味深い。また、当時はどのような方法、頻度で雑草処理が行われ、敷地内の環境が維持されていたのだろうか。

最近では、雑草が生えた空堀でイタチや外来生物のヌートリアが目撃されているようだが*6、江戸時代も空堀に棲み着く小動物(キジや狸など)はいたのだろうか。そして、ここがつくられてから明治を迎えるまでの約240年間、城にいた武士を中心とする人たちは、この空堀にどのような眼差しを向けていたのだろうか。このように、この空堀の守城目的以外の使われ方や、景観に関することについて色々と想像が膨らんでしまう  

 

f:id:akichiniiko:20200909110456j:plain土橋の上から撮影した冒頭写真と同じ空堀(桜門西側。冒頭写真は突き当たりの石垣上から撮影した)。

f:id:akichiniiko:20200909110734j:plainそして、これが反対側(桜門東側)にのびる空堀の様子。

f:id:akichiniiko:20200925194118j:plain大坂城跡は明治から昭和の終戦まで軍用地として使用されてきた。その間、この空堀はどのような状態だったのだろうか。

実は、上の写真(桜門東側)の空堀内の石垣から防空壕の入り口が二つ見つかっており、それらは中部軍管区司令部がつくったもの(本丸地下の防空壕)と第四師団司令部がつくったと考えられるもの(二の丸地下に延びる防空壕)に分かれているようだ*7。このことから推測すると、防空壕をつくる際、この空堀は工事用の土砂置き場や資材置き場、作業員の休憩場などとして使われていたことも考えられる。また、長い軍用地の歴史の中で、ここが訓練場や物置き場に使われる機会もあったのではないだろうか。

以上は素人の勝手な想像に過ぎず、当時の様子を調べる手立てが思いつかないので詳細はわからない。なお、現代では、陸上自衛隊によって訓練を兼ねた空堀内の清掃が行われている*8

 

f:id:akichiniiko:20200909105527j:plain最後に、本丸の西側に延びる空堀を紹介したい。

f:id:akichiniiko:20200909104553j:plain奥行きは170メートルくらいある。地表には草刈り跡と思われる筋が残っているが、はやくも雑草が芽吹いて一部が緑色になっている。

f:id:akichiniiko:20200909104752j:plain空堀を横切るこの配管は、大阪砲兵工廠(おおさかほうへいこうしょう)がつくった鋳鉄製の水道管。

明治時代、大坂城の東側の敷地に兵器製造工場の大阪砲兵工廠が設置されたが*9、この工廠は軍需だけでなく、水道管製造などの民需にも応えていた。

写真奥の突き当たりを右に曲がって20メートルほどいくと、空堀はなくなって水堀に切り替わる。 

f:id:akichiniiko:20200909105204j:plainその他、敷地内で目に留まったもの。

ハトの群れが空堀の中を歩き回っていた。草刈り直後だから見られる光景だろう。 

 

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堀の隅のほうに、いくつか石がかたまって置かれている。この下は排水口にでもなっているのだろうか。

 

f:id:akichiniiko:20200909104930j:plain石垣の下の方を中心に、隙間から草がたくさん生えていた。

よく見ると蔦のようなものや雑木もある。江戸時代から見られる風景だと思うが、これまでに石垣全体が緑に覆われてしまうことはなかったのだろうか。

f:id:akichiniiko:20200909104833j:plainf:id:akichiniiko:20200909105038j:plainf:id:akichiniiko:20200909105013j:plain 
(no.386 大阪府大阪市)

 

*1:本丸の南側と、西側の一部にある。

*2:言うまでもなく城の堀は守城目的でつくられるが、現在は特別史跡「大阪城跡」の一部なので、このブログでは「文化財の空き地」に分類したい。

*3:現地案内板による。

*4:大阪市教育委員会事務局総務部文化財保護課への問い合わせによる(回答日:2020年8月17日)。

*5:渡辺武『図説 再見大阪城』大阪都市協会、1983年、162〜163頁。この推定は1959(昭和34)年に行われた大坂城総合学術調査の結果をもとにしている(同上、163頁。)。

*6:参照(イタチ):ケチャップ姉さん探鳥記「大阪城公園の空堀を覗いてみると 10/22」(https://blog.goo.ne.jp/mushikui-2502/e/9870b4b57a191638cac9502a307da48f)2020.10.9.閲覧。参照(ヌートリア):花鳥風枝「大阪城空堀のヌートリア」https://plaza.rakuten.co.jp/youyou0112/diary/201704230000/(2020.10.9.閲覧)

*7:参照:渡辺武「現在版"大阪城の抜け穴" 大阪城内旧陸軍防空壕について」『上方芸能』第41号、『上方芸能』編集部、1975年7月、96〜97頁。元大阪城天守閣主任の渡辺武氏執筆の記事。ここでは防空壕の工事関係者からの聞き取りを行い、防空壕の推定図、入り口跡の写真などを紹介しつつ詳しく述べられている。

*8:参照:防衛日報デジタル「大阪城を背に今年の一文字「光」」(2020-02-17 編集部)https://dailydefense.jp/_ct/17341363(2020.10.9.閲覧)。

*9:1870(明治3)年に造兵司として設置。