建物の解体が終わりに近づき、空き地が新たにできつつある風景に出会った。
以前建っていたものが何なのかはわからないが、道路側にはまだ階段、タイル、花壇が残されており、わずかに過去を物語っている。しかし、これらもすぐに撤去されてしまうだろう。
ここを見つけてから数年経ち、現在の様子を調べてみたところ、すでに薬局などが入る新しいビルが建てられていた。
自分にとって関わりの深い場所(自宅や毎日通っていた学校や職場など)も、過去には様々なものがつくられ、そして解体され、そのサイクルを繰り返して今に至っているのだろうか。
身の回りの風景は、毎日少しずつ変化していく。
あまり意識していなかったが、普段眺めている何でもない風景にも、知らず知らずのうちにその時の気分や感情を投影しているようだ。過去の風景写真などを眺めると、その当時感じていたことや、その場の空気の匂いまでもはっきりと思い出すことがある。
また、たとえ行ったことがない知らない場所の風景であっても、そこに人々の記憶が宿っているように感じることもある。
風景は、人の営みによって形づくられることもあるし、自然によって形づくられることもある。また、その両方が合わさってできるものも多いだろう。
そして、空き地の風景もまた、様々な理由でつくられる。
ところで、国や地域によって空き地の印象・意味は大きく異なっていると考えられる。
例えば、ヨーロッパなどの長い歴史をもつ石造りの街では、空き地が生まれにくく、その総数は少ない傾向にあるのではないだろうか?
一方、日本や東南アジア、南米の熱帯など、住居を木材(や植物の茎・葉)などでつくる地域においては、比較的短い周期で家を建て替える。つまりそこでは、建て替えのたびに新たに空き地が生まれることになるのだ。
この地域の人々にとって空き地は見慣れた存在であり、「解体と再生」のサイクルの一フェーズとみなされているかもしれない*1。
また、荒野を移動して生活する遊牧民は、そもそも「空き地」という言葉を使う機会があるのだろうか?また、彼らにとって空き地はどのような意味を持つのだろうか?
いつか、世界の人々の空き地観について調べられたら、きっと面白い違いがわかりそうだ。
(no.136 茨城県)
散歩していたとき、たまたまショベルカーが更地をつくっている場面に出会った。
以前、ここの半分くらいは使われていない雑草の生えた空き地で、もう半分は畑として利用されていたのを覚えている。
しかし、今回そのすべてが一旦リセットされ、整地されてしまった。
次は何に生まれ変わるのか気になっていたが、数週間後に確認したところ、写真手前側は物置き場として利用され、ショベルカーのある奥の一画は再び畑として利用されていた。なお、畑の面積は以前より少し増えたようだ。
放置されたままの空き地は「忘れられた場所」という感じがして好きなのだが、開発が始まったばかりの空き地には、これからできる新しいものへの期待が感じられて好きだ。
(no.137 茨城県)
ここが出来立ての空き地かどうか確信は持てないが、表土の感じや、周りを取り囲む覆いの様子からみて、最近できたばかりの空き地だろう。
建築や土木の関係者なら、これからここが何に使われるのか、おおよその見当がつくのだろうか。
鉄板が敷かれているので、建物の建設予定地にはみえない。
資材置き場になるのかもしれないし、あるいは、以前建っていたものの解体がちょうど終わったばかりで、工事に使われた鉄板が置かれているだけなのかもしれない。
地面の鉄板(赤茶)と周囲の覆いの色(白)との対比がなかなかきれいだ。また、カラーコーンと柵の青色がアクセントとなり、空間をまとめる効果が感じられる。
がらんとした場所だからこそ、素材同士がよく響き合い、魅力的な景観になっているのだろう。
(no.138 東京都)
ここは出来たての空き地とはいえないが、数ヶ月前に藪が切り開かれ、空き地になった場所。
この空き地は広いため、全ての範囲を写せなかったが、内部には切り倒された木が何か所かに集められ置かれていた。 この辺りにはまだ森や原野が残っている。しかし、ここは交通量の多い道沿いにあるので、将来は住宅や事業所などが建てられるのかもしれない。
(no.139 茨城県)
*1:たとえば、神宮(伊勢)の式年遷宮が挙げられる。式年遷宮は20年ごとに神様の住まい(社)を建て替える伝統行事である。この行事では、20年経った古い社を解体し、あらかじめ隣に用意してある空き地に新しい社をつくる。こうして新居に神様が移されるのである。一方、解体された古い社の跡地は綺麗な更地にされ、20年後に再び利用されるまでそのまま残される。このように、神宮では「空き地」が式年遷宮のサイクルの重要な役割を担っているのである。